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勝手に部屋は散らかるのに、勝手に仕事は片付かない。

これは重要なことだ。つまり、どちらも「自分でやっていることなのに」だ。

ここにユビキタスの本質がある。そして、アイデアに出会うための戦略がある。

いつのまにか散らかっている机、部屋。私は、この「いつのまにか」の力を自分にプラスに働くようなシステムをつくりたいと考えてきた。たとえば、いつのまにか、「ある英単語」を覚えている。そういう世界だ。

アイデアは間接努力でつくる。 (via gkojax) (via perfume-mania)
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2008-06-23

kskszk:

 Harvard Business Review 9月号に、久方ぶりに日本企業の分析事例が紹介されたのを目にした。しかし、その内容は1980年代にあったようなポジティブな内容ではない。表題は、「A Cautionary Tale for Emerging Giants」(「新興国大企業に向けた警句」(筆者訳))。日本企業は、なぜ、グローバル化に失敗したのかを分析し、その罠に陥らないための警告を発する内容であった。

 指摘されている点は、
「Devotion to the Way (自社Wayへの傾倒)」
自社のWayに沿った人材を求めすぎて優秀人材の獲得競争で遅れを取る。

「An Isolated Domestic Market (国際競争から分断された自国市場)」
分断された自国市場に過剰適応したために海外での市場立ち上げに手間取る、もしくは躓く。

「A Docile Workforce (御しやすい従業員)」
均質的な従業員のマネジメントに慣れすぎたために多様な人材のマネジメント能力が身につかない。

「A Homogeneous Team at the Top (均質的なトップマネジメント層)」
諸外国では一般的に役員の中での外国人比率の2倍の比率で海外売上高比率が構成されるというデータを示しつつ、日本企業では、自国の人材のみで構成されたトップマネジメントが海外進出のボトルネックとなっていると指摘。

という4点である。論文全体を貫く論旨はこうだ、「日本企業は、過去の一時期に彼らに成功をもたらした特殊な環境に過剰適応してきました。だから、環境が変わった今、絶滅しそうになっています」、「(日本以外の)皆さん、絶滅しそうな彼らのようにならないため、気をつけましょう」である。

 筆者は、その中でも、最初の項目が、自社Wayへの傾倒となっていることに目を奪われた。多くのビジネス・ケースで、組織文化やWayの重要性を指摘している。経済学的にも、模倣障壁を持つ組織能力がもたらした競争優位は、企業に安定した利益をもたらす。しかし、同論文内では、日本企業のWayは、自社の強みとして機能してきたと同時に、海外での人材獲得競争を阻害したとばっさりと切り捨てている。

 グローバル化の議論をクライアントと行う際、自社Wayの浸透方法について相談を受けることは多い。海外社員登用の障害は、海外社員の間にWayに沿った考え方や行動が身についていないことにあり、活用を進めていくためには、Wayの浸透を強力に進める必要があるという相談である。同論文の著者が指摘している通り、海外人材獲得の間口を日本企業自らが狭めている一つの証拠であると言える。

 この問いかけは、日本企業にとっては深刻だ。日本企業が持っていた競争優位の源泉の一つを組織文化に求めるならば、日本企業が考える論理は合理的だといえる。しかし、少なくとも今後20年~30年は、グローバル化が企業としての成否を左右する時代である。15世紀の大航海時代から20世紀の植民地時代にかけて行われてきた競争が重なって見える環境だ。そんな中で、かつての強みへの傾倒が、実は弱みに転じているという指摘は、破壊的イノベーションに直面している企業が陥っている状況と同じなのだ。ご存知の通り、破壊的イノベーションが語る未来は、適応に失敗した企業の絶滅である。

 筆者は、この論文を読みながら、1991年放送「電子立国日本の自叙伝」での次のコメントを思い出した。1991年。日本はバブル経済の絶頂期、日本の半導体業界は、メモリを中心に世界を席巻していた時代である。WINTEL支配が業界地図を完全に書き換える、ほんの少し前だ。

 「メモリーというのは、開発項目が100項目くらいあると思うんですね。それを、一斉に、こう、並行的に走っていかないといけない。同じようなレベルのエンジニアが100人いないとできない。それが日本の場合には、協働で、俺がやるというのではなく、協力してできた。それに比べてマイコンというのは、ある優秀なエンジニアが論理回路を構築してしまえばよい。俺が、俺がでよい。集積回路というのは、考えれば考えるほどシュリンク(集積度を高めること)できる。そういう頭のよさ、エンジニアの優秀さが問われます。」(志村 則彰:カシオ計算機専務(当時):電子立国日本の自叙伝第5回)

 日本はなぜ、マイコンで米国に遅れを取っているのかという論点を描く際に語られていた言葉である。その後、日本企業は、メモリを中心に投資を行い、台湾、韓国に抜かれ、WINTEL支配の中で利益の源泉を失っていった歴史を知る者からすれば、重く受け止めざるを得ない言葉である。日本企業のWayへの傾倒がもたらしたものには、こうした歴史も存在しているのである。

 日本は、最早、17世紀から19世紀まで続けた鎖国の時代に戻ることはできない。一方で、海外から見れば、多くの日本企業は、低湿地帯での弱肉強食に過剰適用したワニが、その後平原が広がった陸地に進出できなかった姿と重ねられているのである。

 日本企業は、過去の日本企業の成功の源泉や要因を冷静に見つめた上で、新しい環境の中で、新たな競争優位の源泉をもたらす組織・人事の姿を、新たなWayのあり方を、一から問い直していかなければならないのではないだろうか。筆者は、同論文の著者が指摘するように、日本のWayをばっさりと否定することには与しない。が、自社のWayの”名(書かれていることや暗黙値)”に拘らず、『Way+日本の環境』がもたらした”実(高い品質とコスト安の両立、現場主導での一見不可能なテーマへの挑戦 等)”を取ることを本来の目的において、自社のWayを各国のコンテクストの中で柔軟に解釈し実践していくマネジメントが必要なのだと考えている。

kml:

5145460734_7edd07c941_b.jpg (JPEG 画像, 681x1024 px)
kagurazakaundergroundresistance:

gkojax:

[エロ注意] 脱がないエロさがわからない奴が多すぎてがっかりだ:VIPPERな俺(via cabbage)


2008-09-29
WTCに数千人の社員がいながら、 死者が13人しかでなかったモルガンスタンレーでは、 「リスク管理責任者」が元軍人で、 戦場で茫然自失する部下を統率した経験を持つ彼が、 拡声器で「動け動け」と連呼し続け、最後は歌を歌って励まして、 やっとのことでみんな階段を下りて行ったそう。 「責任者」氏は、 「他の誰かから力強く行動の指示」が必要である、 ということを実戦経験で知っていたのですね。 (ご本人は最後までWTCに残り亡くなった)。
root9:

新垣結衣画像 - 無限ループって怖くね? - Yahoo!ブログ

 ヤンキー志向の若者は、むしろ盛り場を好んだ。池袋、新宿、渋谷あるいは西麻布か六本木。地元の駅前でくすぶってるヤツは負け組、問題外だ。よしんば都会に倦んだのだとしても、そこいらへんの川原や公園には引っ込まない。むしろ遠征をする。それが男の甲斐性ってヤツだ。当然、湘南を制圧し、九十九里浜に向けて車列を並べ、あるいは峠道を攻めるべく十国峠や箱根ターンパイクに向かう。間違っても近所の河川敷なんかには集まらない。そういうことをするのは中学生まで。ガキじゃあるまいし、誰が地元の川っぺりなんかでツルんでうれ
しいんだ?

 ところが、21世紀の若者は近所の川原に集まる。
 どういうことだ?
 キミらは、恥ずかしくないのか。

 恥ずかしいとか誇らしいとか、そういう問題ではない。
 たぶん、単にカネが無いのだ。
 彼らには、クルマを買うカネも、ガソリンを入れるカネも無い。盛り場に繰り出すための最低限のジャラ銭さえ無い。だから川に集まるのだ。赤とんぼみたいに。
 不良のくせに見栄ぐらい張らないでどうする、というご意見はもちろんある。
 が、無駄な見栄は節約しないとやっていけない。昨今の不良は世知辛いのだ。

 若い人たちについて書かれた文章には、「○○離れ」という描写がいつもついて回っている。曰く、若年層のクルマ離れ、若者の海外旅行離れ、大学生の活字離れ、二十代のビール離れetc.…。たしかに、彼らは、携帯電話関連以外のあらゆる消費アイテムから遠ざかっているように見える。
 かくして、小利口なマーケッターが、何か新しいデータを見つける度に、次々と新しい名称を発明開陳する。そうやって、若い連中の消費行動を観察して、特徴を分析すれば、新しいマーケットが発見できるはずだってな調子で。○○夫婦とか。○○需要とか。大喜利のお題でも考えるみたいに。全く。バカにした話だ。

 本当の主題がマーケットの縮小それ自体であることは、本当は誰もが知っている。
 「○○離れ」と言われているものの正体は、要するに相対的な貧窮化のことで、煎じ詰めれば可処分所得を多く持たない若者が増えているということ以上でも以下でもないのだ。とすれば、新しいマーケットなんて生まれるはずもないではないか。債務整理みたいな葬儀需要は別にして。

 若者の貧乏には未来がない。これはとてもキツいことだ。
 私が若い者だった時代も、貧乏は若い人間にとっての既定値だった。この点は、現在と変わらない。
 でも、われわれは未来を信じていた。だから、現状の貧困は問題にならなかった。
 初期設定がゼロで貧乏が出発点だということは、未来が豊かであることの裏返しで、つまり、心配はご無用の前途は洋々なのだと、そういう筋道でわれわれはものごとを考えていた。

 であるから、われらバブルの申し子たちは、より豊かな明日の到来をテンから確信し、それゆえ、貯金が無いことを気に病むこともせず、今月の収入のすべてをきれいに使い切って、あまつさえ図々しくローンまで組むことができた。錯覚であれ脳天気の結果であれ、とにかく20世紀の若者は、未来を信頼し、クルマを買い、海外旅行に出かけ、全集を予約し、借金の担保のために借金の証文を作っていた。で、その若いオレらの無思慮な消費行動が経済をドライブし、市場を回転させ、企業を潤わせていた。奇跡だ。社会の全員で回す壮大なねずみ車。

 今の若い人たちに同じことをやれと言っても無理だ。
 時代が違う。
 彼らが暮らしているのは、借金がインフレで棒引きになる時代ではない。収入が右肩上がりで伸びていくことが前提になっている社会でもない。正社員がクビにならない保障もないし、それ以前に、上場企業は若い人々を正社員として雇用したがらなくなっている。とすれば、誰が未来を信頼できる?

 どこかの統計で出ていたが、20代の失業率は、中高年のそれがなんとか横ばいで推移しているのと比べて、驚くべき角度で上昇し続けている。改善の気配も無い。
 とすれば、やんちゃな若いヤツが地元の川原でクサクサしているのも致し方のない話ではないか。